日本語新釈
殷(いん)の都・朝歌(ちょうか)——天子の住まう宮殿の奥で、香炉の煙が静かに立ちのぼっていた。
「女媧(じょか)さま……この紂王(ちゅうおう)、今宵は特別な願いをお伝えしにまいった」
そう呟きながら、紂王は神殿の女媧像をじっと見つめた。その目には酒の紅が差し、頬はうっすらと赤い。
「いやはや、この像、実に見事だな。まるで生きているようだ……」
その言葉どおり、女媧像は艶やかな衣をまとい、微笑みを浮かべて佇(たたず)む姿が印象的だった。だが次の瞬間——
「フッ……」
紂王が不敵に笑った。
「これほどの美貌を持つ女神が、ただ石像として祭られているだけとは惜しい。もし、この女媧が現実に現れるなら……余の后として迎えようではないか!」
——その言葉が、天に届いた。その夜、女媧は怒りに満ちた神気をまとって現れた。
「人の子が、神に欲をかくとは……浅ましい」
彼女は封神台に座し、天書を開く。
「妲己(だっき)、行け。お前が人間界へ降り、紂王に災いをもたらすのだ」
一匹の九尾の狐が、静かに神前に頭を垂れた。
「承知いたしました。女媧さまのご意志、しかと受け止めました」
その夜のうちに、妲己の魂は人間界へと飛んでいった——目指すは西伯侯(せいはくこう)の娘、蘇妲己(そだっき)の肉体だった。

一方その頃、殷の朝廷では——
「陛下、近ごろ政務が滞っております。民は飢え、災厄も相次いで……」太師・聞仲(ぶんちゅう)が言葉を選びつつ進言したが——
「うるさい!余の楽しみを妨げる者は、皆罰するぞ!」紂王は杯を投げ、怒声を上げた。

群臣たちはうつむくしかなかった。だがそのとき——
「陛下に妃を献上いたします。我が西伯侯の愛娘、妲己にございます」大臣の一人が進み出た。
「ふん……その娘、美しいのか?」
紂王の興味が一瞬だけ、政から逸れた。
「絶世の美女と名高うございます。もしや、お気に召すかと……」
紂王は目を細めた。
「よかろう。すぐに迎えよ。……退屈していたところだ」
そして数日後——妲己が後宮に現れたその瞬間、空気が変わった。
「……ふふ、紂王さま。お迎えいただき、光栄ですわ」その微笑みに、紂王は息を呑んだ。
「これは……!なんという……なんという艶やかさだ……」
誰も知らなかった。この妲己の瞳の奥に、神の怒りが宿っていることを——
【次回予告】
妲己の毒が王宮を蝕むとき、忠臣たちは次々と命を落とし、国は狂気へと堕ちていく。次回、「忠臣、血に泣く」。お楽しみに——
中国語原文(繁体字)
商紂暴虐無道,女媧氏顯聖,命妲己下界,迷惑君心。
詩曰:
殷商氣數已將終,天降災殃國運空。
女媧廟中紂王戲,妲己狐魅惑主聰。紂王無道,不尊上天,微服至女媧廟遊玩,見廟中神像,姿容端麗,心生非禮之意,作詩褻瀆,遂招天譴。
女媧震怒,命狐精妲己下凡,附身於蘇妲己之體,入宮惑主,使朝政紊亂。
紂王信妲己,寵愛無度,虐殺忠良,勞民傷財,天下動亂,民不聊生。
